旅館おかみ

小野雅世/綿善旅館

関わる人全員、みんながハッピーになる旅館になる

ーーまず綿善旅館について、ご紹介いただけますか。

小野雅世さん(以下、小野) 1830年に創業した旅館です。当時、全国から京都にやってくる商人さんが来られるような宿やったと聞いてます。その時から今に至るまで変わらず、四条烏丸から徒歩8分の同じ場所でやらせてもらってる、部屋数27室の小規模旅館です。

――老舗ですね。その老舗旅館で、小野さんご自身は、どんなキャリアを経てこられたんでしょうか

小野 私は京都生まれの京都育ち、大学も京都の大学に通ってたんですけど、そこからどうしても京都から出たいっていう思いが強くて、全国転勤のある会社がええなぁくらいの感じで最初は就職活動を始めて、そこからご縁をいただいた銀行の総合職に落ち着きました。

入社して無事に京都から脱出できまして(笑)、大阪勤務で、配属が法人営業部というところで、担当は中小企業さん、融資中心ですけど、外為関係の金融商品を売ってたりも多かったです。

 

そこで3年半ほど働かせてもらってから一変、専業主婦になるんですね。まあ言うてもすぐに働きたくなったんです。ちょうど半年位したところで、実家の旅館の社長である父から声が掛かり、綿善旅館にアルバイトとして戻りました。

その頃は、夫は転勤族だったのでそれも視野に入れて、ちょっと言い方悪いかもしれへんけど、“腰掛”くらいの軽い気持ちでスタートしました。でも、性格がのめりこむタイプなんで、仕事を一生懸命頑張るようになったら、気づけば役員になり、若女将になり、おかみになる、という。

――まじめに仕事に取り組んだ結果の、順調なキャリアアップですね

小野 ただ、順調という一言では表せないような・・・ケンカ、じゃないですけど、いろんなトラブルとかもめごととか、当時の社長だった父親に何度「やめろ」と罵倒されたかっていうくらい。

で、気づけば、10年以上経って、おかみになってました。

――はじめに、京都を出たかった、という話もありましたが、何か理由が?

小野 京都って当時の私にとってはすごい閉塞感がある地域だなと思っていて、その閉塞感がすぎく居心地が悪くて。京都全体っていうよりは綿善のある中京区碁盤の目の中で、私が生まれた大体40年くらい前はまさにそんな時期・そんな地域で、ちょっと生きづらさを感じるというか・・・

実際、私が小さいころに関わってた人って、幼い私の目から見て、めちゃダサい大人に見えたんですよ。妥協で働いてたりとか、仕方なしにここにいる、みたいなね。そういう大人を見てて、なんかどうしても外を知ることなくそのまま実家の旅館に入って仕事するっていうのは考えたくなかったし、京都という土地からとにかく出たい、と。

親も厳しい方だったと思うのですが、門限も暗くなるまで、とか、自由が利かない程度のお小遣いしかもらえない、みたいなところで、「脱出したい」という思いで京都を飛び出しました。

――小野さんらしいエピソードです。

――銀行を辞められた後、旅館に戻る気はなかったんですか?

小野 後々戻る、っていうような潜在的な意識はあったんですけど、やめてすぐに入るっていう気持ちは一切なかったです。ただ、なんていうんだろう・・・結局ええ銀行に入らせてもろても閉塞感から逃れることはできなくて、OJTを担当してくれた先輩には「稼がない奴は生きてる価値がない」っていうのを刷り込まれて・・・銀行としての価値観はそんなじゃないと思うんですけど、、要は世の中にいる、何も経済的価値を生み出さない専業主婦っていうのは生きてる価値がないんや、みたいなことをなんとなく、言葉にはしなかったけど、自分の中にしこりのように残っていて。で、一方では、10歳から私、旅館のお手伝いをしてたので、お客さんの中に、専業主婦が一定数おられることをわかっていたから、さっきの考え方に対する違和感というか、私の考え方も偏ってるんじゃないか、間違ってないかみたいなところがあって・・・私、視野がすっごく狭くて、その立場にならないと見えないから、自分が一回専業主婦にならないと見えない世界があるだろうな、で、一回やってみようとなったわけです。

 

旅館の仕事って朝と晩、小さい子を持つ親が家にいる時間帯に仕事っていうのが前提なんですけど、私の中でそれは望む人生じゃなかったし、夫も当時転勤族だったので、ある程度子ども育てて、手が離れた段階くらいで旅館に戻って、そこから本腰入れて働こう、みたいに思ってたのが本音です。

まあ、キャリアでバリバリ働いてた私からすると、専業主婦って1週間で飽きてしまって、もう働きたくてしょうがないなぁ、ていう思いがありました。ただ、銀行には辞めるとき、旅館の将来も見据えて退職します、っていうのを伝えてたので、近所でパートとして働きだすのもなんか引け目があって、ていうときに父から、旅館の一部改装が終わってリニューアルオープンするときに旅館に戻ってこないか、という話が来たんです。それなら銀行辞めた理由ともリンクするし、週何回とかならえーよ、みたいな気軽な感じで、さらに夫が転勤したら何も悩まずついていくし、家庭第一、生活を優先したシフトにさせてもらう、ていう上から目線の信じられない回答をして旅館に戻ったというのがきっかけです。

――いろんな条件、認めていただいてウェルカムに

小野 いや、フタ開けてみたら、父は戻ってきてほしいなんて思ってなくて、ベテラン従業員のおばちゃんにけしかけられたのを真に受けて、何も考えずに受け入れたというのがほんとのところでした。だから当初言ってた労働条件も守られず、正社員並みに働いてるのに手取りは「・・・」でした

――従業員として働き始めて、ジレンマはありませんでしたか? 跡取りなのに、っていう

小野 結局、私が見てきた38年前の旅館からあまり変わっていない、時代錯誤ですよね。

社会人1年目で銀行の人たちの本気で働く姿を見て、経済のこと、お客さんのことを真剣に考えて、スキルアップも考える人たちの中で働いたっていうのは私の中のベースになってたので、旅館に帰ってきたとき、そんな雰囲気が一切ないのに驚愕した。とにかく多くのスタッフの目が死んでると感じました。働く意味とか意義とか感じてない人がすごく多い。

で次に、なんでそうなってるのか、って考えると、経営者や業界自体に対しての期待の無さとか、進路の先生に勧められたから就職したとか、希望の職業ではなかったけど消去法で来た人が多くて、あーこのままだと続かないなーというのを感じましたね。

アルバイトとして入ったことでよかったこともあるんです。跡取りあるあるなのかもしれませんが、新卒で入っていきなり専務とか経営側に入る。私も銀行総合職出のバリキャリが戻ってくるわけですから、当然、みんなは警戒して、厚い壁を作っちゃうんですけど、当時の私って、お酒もタバコも大好きだったので、喫煙部屋で一緒になって「旅館のここを変えたらええのになあ」みたいな話ができたり、いろんな人と飲みに行って、どんな思を持って働いてるのか、なんて話を聞くができた。という意味で、アルバイトという入り方、すごくよかったのかなあて思えます。

――老舗企業では珍しいのかもしれませんね

小野 知り合いの跡取りさんで、新卒で経営幹部として入った人が、50代くらいの社員に対して、ナアナアお茶ちょうだいよ、みたいな接し方してるのを見たとき、この旅館では働きたいと思わへんな、と感じた。

――銀行で働いた3年半が、すごくいい経験になったわけですね

小野 3年半くらいで銀行員を語るなよ、って感じかもしれませんが、私の人生っていう視点で見たときには、その3年半がなかったら、今の綿善旅館にはなってないし、私自身の人生にもなってないなあって思います。

 

 

 

 

――喫煙部屋や呑みの席で従業員の皆さんとの話の中で「こんなふうに経営すればいい」というのは考え始めてたんですか?

小野 私ね、腰掛のつもりのアルバイトとして戻ったくせに、いきなり“日本一の旅館にするわ”みたいなことを、平気でペロッと言っちゃう人でね。まあ現状を知らなかった強みもあったのかもしれないですけど、私を戻らせろって父に言ったおばちゃんなんかは大爆笑して、そんなんできるわけないよって・・・そのことが心にしこりとして残って、「やったらあ!」みたいな気持ちは自分の中に生まれたんですけど、ただ「日本一」っていうワードには何も中身が伴ってなくて。

そこから実際に旅館で仕事をしていく中で、幸福感を持って働いてる人があまりにも少なくて・・・      私らの商売って言うのは、幸福を得るためにやってる余暇産業でもあるんで、そこで働く人自身が、疲弊してストレス溜まってるっていうのがあまりに一致しないなーって・・・ただそこに気づくのにも、ぼやぼやしちゃって何年かかかってるんですよね。日本一っていうのも、よくあるおもてなしランキングとかね、そういう中で、結局何を目指してるの? て言ったときに、これはたぶん、関わる人全員、働く人もやし、地域の人・お客さんみんながハッピーになる旅館、そういう意味での日本一になりたいな、というのにたどり着いた。数年後かかりましたけど。

――闇雲な「日本一」に方向性ができた?

小野 最初はほんとにそうだったと思います。ただ「そこらへんの旅館で終わりたくない!」っていう思いはあったんで。

――そこから考え始めて、いろんな取組やアイデアにつながっていく、と?

小野 コロナの前までは、アイデア出しても、またなんかバカ言うてるわ、とか同業の中でも白い目で見られるし、今でも、“雅世さんって、結局理想しか言わへんよね”

って言われるし。

――外部から見てる綿善さんは、ほんとに行動してる会社に見えますよね。理想ばっかりではなく。

小野 むかつくんですよね、なんもせえへんくせに口だけ番長とか。1回きりの人生、文句言うてる時間あるんやったら、動いた方が絶対価値あると思ってるんで。

――先日お話を伺った岸本さんでも、とても活き活き働いてらっしゃるように映りました。小野さんが社員教育で気を付けてらっしゃることはありますか?

小野 私実は、“おかみ”としての自覚はいっこもなくて、女将ランキングで言うたら底辺におると思ってるんですよ(笑) 講演でも、女将の話をしてくれってオファーをよく受けるんですけど、残念ながら女将はしてない。私は、小野雅世さんという人が、おかみっていう肩書をちょこっと肩に乗せて、くらいに思ってて、どっちかというと、「小野雅世さん」というブランドでやってる面が強い。

前提としてあるのが、私はじぶんの人生がめっちゃ大事なんです。で、それって、私以外全ての人も同様に自分の人生を大事にしていると思うんです。、その大事な時間を使って、綿善で働くって決めてくれた人たちって、すごい尊い存在だと思ってるんで、その人たちがハッピーになってほしい、ここで働いてたことが今とか将来に役に立てばいいなと思っていて。なので研修も、彼らがお客さんに対して素晴らしいサービスができるようになるスキルであると同時に、人生のスキルになるようなことでもある。金融研修もそうですし、コーヒーマイスターに来てもらって、ミルの仕方や秒数測って、美味しいコーヒー淹れる研修なんかだと、これから先彼女らが淹れるコーヒーが美味しくなる。ああそういえば旅館でこんな研修したな、が残ればいいし、世の中にとって価値ある人間になるっていうのを心掛けて、外部研修も受けてもらってます。

あと、私自身は自己肯定感めちゃくちゃ低いんで、綿善にいる人たちには、自己肯定高く持ってほしいっていう願いがあるんです。じゃあどうやって高めるのかっていうと、苦手なところを指摘するんじゃなく、得意とするところ・好きやなと思って好んでする行動の中に褒めポイントがあって、「これすごいね」「あなたがしてくれたことでこうなったよね」っていう認めを入れてあげるとそのポイントが伸びていく。そういうところを意識して接するようにはしています。

――ここまで伺った小野さんのお仕事って、これまでのステレオタイプの女将像とは一線を画している?

小野 わたし、「女将」って呼ばれるの、めっちゃ嫌いなんですよ。取引先なんかは「女将さん」って呼んでくるんですね。その方が名前覚えなくて済むし。だから、そう呼ばれても絶対振り向かない。

「雅世さん」って呼んでって言ってます。それを無視して女将さんって呼び続ける人とは、そのうち縁が切れるかな。私は取引先も含めて、人と人の付き合いやと思っているので、それが伝わらない彼らっていうのは、たくさんいる女将の内の一人っていう認識なんやなーって受け止める。

――女将というよりは旅館経営者?

小野 そうなのかな。正直分からない。

でもね、私、ここまで言ってるのに、なんでいまだに名刺に「おかみ」って書き続けるかというと、その方が世間に受けるからっていうのもわかってるんです。なので、間を取って、名刺の字はひらがなの「おかみ」にしてます。

――伝統的な旅館だと、守るのが美徳とかあるんじゃないかと思うんですが、変えていかないと、っていうのは感じますか?

小野 いや逆に、旅館の歴史を見てても、変わってきてますね。経営者と京都って両方似てるな、と思ってて、伝統と革新みたいのを共存させているところが継続的な企業になってんのかな、と分析したりとか。実際祖母に昔の話を聴くと、戦争で旅行者が皆無になったときは、地元の大学生に下宿屋として使ってもらってたらしく、形態を変えて生き残ってる。でもやってる方は自覚ないんですよね。変わってるというよりは、ちょっと派生したとか、無理のない変化の仕方をしてるなって思っていて、私なんかもまだ外に出きれてなくて、今通販サイトをやったり、広報に関わったことをやってることで注目は浴びてるけど、結局旅館業をやってるんで、変わりきれてないなあ、と。昔っからずっと経営されている京都の宿・京都の企業はずっと変わり続けていると思います。

 

――残り続けているのは、時代の変化に臨機応変に対応されているということですね。

小野 そうやと思います。わからんもんね、10年先、20年先。

――もともと京都は好きじゃない、というところからスタートした小野さんでしたが、38歳になられた今、京都は魅力ある街になりましたか?

小野 京都自体はあまり変わってなくて、変わったのは自分だなと思っていて・・・幼少期から親も含めた大人の顔色を見て生活するっていうのに疲弊して飛び出したんですけど、38歳のおばちゃんになって、「もうなんでそんなことせなあかんねん!」くらいの割り切りができるようになりましたね。私は私。

最初は、女将さんならこうあるべき、っていう指摘やお叱りも受けたんですけど、それを乗り越えて、私は小野雅世です、その小野雅世が京都におって、京都で楽しもうと思っていて、そこになんの文句があんねんっていうのをたくさん身につけたから、今、京都ってすごくいいところやなと思えるようになってきた。

ただこれって私の環境がそうさせただけであって、今の若い方って、多様性という言葉もある通り、自分が自分であることを認められてるんですよね。そういう人たちにとっては京都ってそんなに難しい場所じゃなくて、20分もバスに乗れば静かなお寺があって、ちょっと自転車こげばおいしいラーメン屋さんの通りがあって、とか本当にいろんな価値のある街だから・・・働き方で見ても、世界的な企業がたくさん展開してたりして、すごいブランド力のある地域だと思うんです。そういう意味で、就職活動の時期とか、企業に試されてるような感覚になって自信なくしちゃうかもしれないですけど、そうじゃなくて、京都っていう場所は、いろんな自分を受け入れて、それを発揮できる場所なんだと自覚して頑張ってほしい。

――小野さんご自身の未来ビジョンは?

小野 私、65歳でたこ焼き屋になる予定やったんです。まだ子どもも小さいので、65歳ではちょっと難しいかな、とは思ってるんですけど。もともと私、中学生の時にたこ焼き屋になりたい一心で、突撃調査に行って、おっちゃんにいろいろ教えてもらったり、夏休みの宿題でたこ焼き屋経営レポートを提出したり、とかしてたんで。今でもおっちゃんとこ会いに行ったりもするんですけど、なんか気負わずに、私の大好きなたこ焼きを、大好きな人たちに、例えば子どもらが100点取ったっていうたら、ほな100個サービスや、みたいな(笑)そんな商売が早くしたいです。

――すごくあたたかくて楽しい店になりそうですね。今日はありがとうございました。

 

 

 

詳細情報

綿善旅館/小野雅世(MASAYO ONO)

サイト・店舗URL:https://www.watazen.com/

TEL 075-223-0111

所在地 京都市中京区井筒屋町413(柳馬場六角下ル)

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