焼き菓子製造

石田宏次/石田老舗

古きを訪ねて新しい時代に向かう

———現在のお仕事について教えてください。

石田宏次氏(以下、石田)お菓子の製造と卸および販売を行なう、「株式会社石田老舗」の6代目社長をしております。おもに焼き菓子、焼き物を中心に販売している会社です。

———ありがとうございます。府外の方たちが京都企業の話を聞いてまず驚かれるのが、「6代目」や「創業150年」などという言葉が普通に出てくるところで。やはり、こういう歴史のあるところが「京都」の特徴かなと思っています。石田さんが会社を継がれたときのお話にも非常に興味があるのですが。

石田 大学を卒業して5年間ぐらいは、東京でサラリーマンをやっていたんですよ。東京で勤めて5年半、先代の社長である父がまだ専務のころ、「シュークリームの小売店を立ち上げたいから、お前、帰ってこい」ということで渋々帰ってきたんですよね。

———わざわざ上京されたということは、サラリーマン時代は「お菓子」とは関係ない仕事だったんですか?

石田 お菓子関係ではあったんです。「株式会社虎屋」に5年半くらい勤めていました。

「家業を継ぐ気はない」ということではなかったんですけれど、「別に継がなくてもええかな」という感じだったんです。どうせ家業を継がないんだったら京都ではなく、一度、東京で仕事してみたいなというのがあったんですよね。就職面接の希望は、全部東京勤務希望で出したんですよ。

京都を離れたかったというのもありましたが、なにか、お菓子屋以外の仕事をしたいな、とも思っていました。就職活動では全然違う業種で、不動産屋とかスポーツ用品店とか、あと、食品でもお菓子以外の食品とか。お菓子屋は3件ぐらいしか面接に行ってなかったですね。

結果的にはお菓子屋に就職したけれど、そこでの仕事が結構楽しくてですね。最終的には、虎屋でよかったかなと思ってます。

———企業として「虎さんならではの」、という特徴的な面はありましたか?

石田 虎屋は和菓子業界の中でもトップクラスで、もちろん歴史もトップですし、売上や認知度、商品のクオリティもそうですし、いろいろな部分で先頭を走っているような会社でした。

そういうトップクラスの会社に入るというのは、「自分を試せるかな」という思いもありましたね。

———その5年半、どうでした?

最初の2年は販売で、渋谷にある百貨店で売り子をやっていました。売り場に立って販売するというのが合っていたのか、この仕事は好きでしたね。

あとの3年半ほどは、広報課で取材の対応などに携わっていました。でも、最初は広報ってどんな仕事をするのかわからなかったんです。販売が好きだったのに、よくわからない課に行くことになって、なんでいきなり本社に……って営業課長にすごい食ってかかったんですね(笑)。販売希望で異動出してましたやん。なんで本社なんですかと。

「違うんだよ、石田君、本社でも“広報課”というのはいい部署なんだから。選ばれてるんだから、行ってきなさい」と言われまして。あ、そうですかと行ったんですが、最初の1ヵ月は新聞を読んでいるだけで、なかなか面白さを見いだせなくてですね。

でも、徐々に広報の意義が理解できたり、仕事内容がわかってきたり、それに取材対応や取材自体が楽しかったんですね。これに目覚めたお陰で“広報のなんたるか”がわかってきだしてからは、楽しかったですね。虎屋の歴史を聞かれることが多かったのですが、やはり和菓子の歴史、ひいては日本の歴史というところにつながってくるわけで、和菓子の歴史を勉強するのが結構楽しかったんです。

———では、その5年半の選択肢は「やって良かったな」と感じられてるんですね。

石田 そうですね。

———京都に戻られて、虎屋さんと石田老舗さんではどのような違いを感じられましたか?

 

石田 それはいろいろなところに差がありましたね。いきなり“店長”という名の半分経営者みたいな形で勤めだしましたので、働き方にもギャップがありましたし。

それに、会社の規模が違いますから、百貨店さんの食品売り場なんかもう手のひら返すような対応でしたよ。

“虎屋の社員”という肩書きがあったころは「虎屋さんの石田さん」みたいな感じでしたけど、そんなんどこの馬の骨かわからないシュークリーム屋の店長になっちゃうと、「あ、あそこ置いといて」みたいな(笑)。そういう世間的なギャップもありました。さすが虎屋さんというかね。

———まだまだ“百貨店”という業態が高いプライドを持っていた時代だった、というのもあるんでしょうかね。

石田 今から24,5年ぐらい前でしょう。でも、お互い様というところもあるかもしれません。自分にも、「自分がいろいろ覚えてきたことをやってやろう」という、血気盛んな若さがありましたから。

今の会長である父親とも、よケンカしましたね。入社当初はしょっちゅうケンカしましたよ。

———それはやはり社会での経験からして、お父様のお考えが違うんではないかという意見の食い違いでしょうか。

石田 そうですね。特に、学んできたことが間違っているわけじゃないのに否定されると、やっぱりケンカになりますね。

うちの父親は小売店の経験はなかったので、広報の仕方も宣伝の仕方もど素人なのに、なんで俺の言うていることが認められへんの?という話で。

こっちは3年半イヤというほど勉強してきた。だからこのやり方がいいと言っているのに、なんでそれに対して否定やねん、みたいな。スーパーのチラシ出してどないすんねん、オープニングのチラシというのはそういうものじゃないんだ、みたいな。

そう、オープニングのとき大ゲンカしてます。でも、もうそこは折れたらあかんと思ってたから、頑として聞かなかった。俺は一応、広報を3年半学んできたと。

“広報”というのは、ブランドを広めに行くことをやる、広めるから広報なんですね。父親の言ってる“宣伝”は「この商品いくらですよ」というだけで、それじゃあスーパーのチラシやんかと。その違いがわからないのに偉そうな事をいうなと。今回出すのは広報で、「Crème de la Crème(クレーム デ ラ クレーム)」というブランドを広めるんや、オープニングはそんなもん、シュークリームの種類など載せんでええわと。

———なるほど……。広報といえばここ25年、Web媒体での周知が浸透しましたが、当時はどのように?

石田 ですね、うちらも最初は紙媒体しかなかったですね。

最初、チラシに掲載したのはうちのロゴ「Crème de la Crème」という名前と、「黄色」といううちのコーポレートカラーで「シュークリーム専門店 平成11年11月11日11時11分OPEN」だけの広告でした。それを全面です。それでも、お客様はオープンまでに3時間半並んでくださいましたね。

「なんの店ができるんだろう」「シュークリーム専門店ってなんやねん」「専門店のシュークリームってどんなだろう」という期待感を持たせる広告です。また、いらしたときに「すげえ」と思わせるような店づくりになっていたので、チラシに商品を掲載しなくても、店を見たときに「入ってみたい」「買ってみたい」と思ってもらえるはずだから、広報はそれでいいんだと父親に言いました。

店の名前すら「Crème de la Crème」ってなんて読むんだ?というふうにね。名前すらよくわからん店が平成11年11月11日、11時11分オープン、このインパクトだけで行ってみたくなるという提案をして結果を出したんです。朝から晩までずーっとお客様の列が途切れない状態が、オープンから1ヵ月後ぐらいまで続きました。そのぐらい忙しかったし、そのぐらいインパクトを与えていました。

丸太町に黄色いビルなんて建てられないので、実際のところ店はベージュなんですよ。にもかかわらず、「あの黄色い店」「黄色いシュークリーム屋さんやろ」というイメージ戦略がバチっと当たったわけです。

父親に対しては「ほれ見たことか」という感じでしたが、向こうも負けたくないのであれこれ言ってきましたね(笑)。

———他にも、手がけておられる商品はありますよね?

石田 小売店のほうは、シュークリーム中心でやってました。一方、卸業の方は焼き菓子中心。こちらはこちらで得意先さんのご要望に応える場なんで、「どんな商品をつくってほしい」「こんなのつくれますか」と言われれば、できることならやる、それの繰り返しです。

こんなOEMというのも、おもしろいんですよ。思い切り“縁の下の力持ち”という感じで。

今でこそ裏表示に製造所を書かないといけなくなっていますが、当時は製造所なんて書かなくてよかったので、その商品をどこがつくっているかなんて消費者さんにはまったくわからない。だから、完全にBtoBtoCでBが一つ抜け落ちるわけなんですよ。

———ですと「この商品はよく売れたけど言えない」とか、そういう構造なんですね。

石田 そう、だから売れるとにんまり笑っている、みたいな。いろいろ言えない商品もたくさんありますね。ただ、京都はもともと“分業文化“=分業制というのが一つの文化ですから。

江戸時代でも、京都の町のなかには「菓子屋」の名を冠した店だけで300軒くらいあったんですよ。戦争で減ったんですけども、今またやっぱり、そのぐらいあるんですね。この300軒の小売店さんに、それぞれ下請けが分業でいるわけです。餅は餅屋、焼き菓子は焼き菓子屋がいてて、餡子は製餡所がある。

また、菓子だけではなく、虎屋さんみたいなところでも菓子を中心にはやっているものの、基本的には料理場の中の「肉魚野菜以外」を取り扱うのが仕事という感じ。だから、昔は虎屋さんでもお鏡さんの餅ついたり、蕎麦をったり、大正時代にはパンをったりして。そういうのが、「菓子屋」の仕事だったんです。

そういった歴史からも、クオリティの高い“分業職人”が京都にはいるわけですよ。

———まさに、京都の歴史ですね。ではそんな京都で働く魅力ってどのようなところだと思われますか?

石田 働く人が、「伝統を守ろうとする気があるかどうか」で京都に感じる魅力って変わると思います。もちろん報酬も大事ですが、京都の中小企業で働く価値を見出すなら、やはり「分業の良さ」を伝えたいと思う気持ちがあればこそですね。この文化を残していくことも仕事の一つだと思えれば、そこに楽しさというか、自分がやらなければならないことが見えてくると思います。

「京都企業」と言うても中小零細の集まりですから、大企業働くのとはわけが違います。中小零細企業で成り立っているのが京都の町なので、そうした伝統をつなげていこうとするかどうかですよね。

もう一つは、そういう小さい会社に入ることで、自分が起業するときの糧にできるかなというところ。京都って新しいことが好きな町なので、ベンチャー起業もいっぱいできてるわけです。半導体をったり、発光ダイオードをってみたりね。京都の企業に勤めていると、そういうふうに「古いところから新しいものを生み出す」という点でで学ばせてもらえます。

———歴史ある伝統的なお仕事と革新とが、常にともなってるわけですね。

石田 そうですね。虎屋さんの社訓でも「伝統は革新の連続」と書いてありますけれども、まさにそうなんです。伝統と革新の連続じゃないとできないんですよ。

プライドが高すぎて潰れている店もありますが、それは何故かっていうと、革新しておられないからなんですね。「伝統」という言葉を、言い訳にしてはいけないと思いますよ。

 

———では今度は、学生の皆さんへのメッセージをお伺いしてもよろしいでしょうか。

石田 学生の間って、お金を払って勉強して宿題しているでしょう。でも、仕事になったら、お金を貰っているのに宿題をしない・予習もしない人がいる。

学生として学んでいる間は単位のために宿題や勉強を自主的にやるのに、社会に出たら仕事は仕事中しかやりませんというのは、そんなことが絶対うまいこといくないやないかと。仕事は実践。実践と練習を一緒にするなと、そんなふうに思いますね。今は、練習期間中もお金くださいみたいなことがまかり通っていますけどね。

それだから、我々零細企業なんかは即戦力にならない大学生を採用しづらいんですよね。だから、実戦でどれだけ使えるかプレゼンテーションしなさいよと。

大企業だったら、東大卒業のトップのやつだろうがなんだろうが、どんなレベルの大学の卒業生であってもその会社に入ったら同じスタートラインで済まされる。けど、自分をプレゼンして「僕はこれだけのことができます」と言ったら、一般的に20万のところをお前には23万やるって言えるのが、我々中小零細企業ではないかなと思います。

「仕事に貢献できる」ということが言えたら、23万貰える企業も25万円、下手したら30万くれる企業もあるかもしれない、それが零細企業のいいとこかもしれないし、おもしろいところもかもしれないです

京都には、我々みたいな“黒子”の仕事がいっぱいある。その黒子の仕事を、分業の文化を守る、というような大きなビジョンを持って働けるならアリかなと思います。

———最近はインターンもあって、中小企業を体験することもできますしね。

石田 大学でインターンシップは絶対するべきだと思います。ただ、企業をよく選ばないと。使い走りとして使われて終わってしまうインターンシップがあるとも聞きます

それでは時間や機会がもったいないなと思うので、インターンシップは相互評価をするべきだと思います。企業が、大学や学生に「ここは良かったけど、ここが課題なっている」とフィードバックしてあげる。その逆に、「この企業に行ったけどそこの何が良かった」とか、学生の素直な気持ちを企業側にフィードバックさせたらいいと思いますね

総合評価10段階中なんぼだったかで、例えば2とか3とか毎年毎年評価の低い企業さんなんかにはインターンシップに来なくなるから、それはそれで一つ、企業も学ぶようになるんじゃないかな。

———5年後実現したいことや、5年後こうなっていたいといったビジョンはありますか?

石田 は社長になったとき、「65歳引退計画」というのを立てたんですよ。が社長になったのは、42歳でした。

65歳までは24年間で、この24年で3つやらなあかんなと思ってることがあります。ひとつ目はもちろん、会社を継続させなあかん。もう一つは後継者として誰を社長にするのかということ。息子なのか、よそから雇うのか、もしくは「社長になりたい」というのを社内から募集するのか……後継者を見つけないといけないんです。

そしてもう一つは、健康でいなあかんのです。この3つがないことには65歳で引退どころか、65歳前に死んでしまったらどないするのという話で。健康は一生の課題ですわね。ここからはちょっと「健康優良じじい」にならなあきませんね

うちの会長なんか86歳ですけれども、入院も手術も大病もしたことないんですよ。今でもピンピンしてるので、86歳まで生きてる値打ちはありますよね。65歳からのあとの趣味も考えてあって、年とってからやることが増えると生きてても楽しいじゃないですか。あれもせなあかん、これもせなあかんと。そのためには金も必要なんで、稼ぎながら自分の好きなことができたらいいですよね

会社としては、この10年ぐらい、OEM事業はまだもうちょっと続けようかなと考えてます。多分辞めなくてもいいんじゃないか、必要とされるんじゃないかなと思っているんですね。

お菓子というのは日本の国がなくならない限りなくならないと思っています。日本の国が存続すると仮定して、OEM事業というの残るだろうし、高齢化し、健康志向が高まるなかにおいても、商品開発力のある会社というのは絶対残ると思ってるので続けていこうと考えます

小売部門をどうするかというのはちょっと悩むところですね。シュークリーム事業を今後どうしていくかとか、鯛焼き屋事業はもともと5年で投資回収出来る体制を考えながらやってますから。だから、地に足をつけてきちっとやっていく事業と、時代の流れでコロコロ変えることが出来る事業と分けて考えていこうと思っています

———最後に、メッセージをいただけますか。

石田 うちの会社って、昔から社訓社是ないんですよ。それはなぜかいうと、時代の流れに乗って得意先さんが変わっていくので、時代の流れに即していくには社訓とか社是があると邪魔になるというのがあったんですね。

ただ、「社長のスローガン」くらいはあっていいんじゃないのと思って私の代から毎年スローガンを出しているんですよ。毎年、時代に即しているとこっちが勝手に思っているんですけれども、今年はこういうスローガンでいこうと考え発信しています

最初に出したのが「温故向新」です。温故知新の「知」というところを「向」にしたんです。古きを訪ねて新しいところへ向かう。新しきを知るだけでは経営としては物足りない新しき時代に向かうとか、次代に行こうとか、それを迎えに行くという意味を込めて出しました。

毎年このスローガンを変えていまして、去年は「絶対積極」。コロナ禍だからといって何事にも消極的になるのではなく、出張や得意先、新規得意先開拓積極的に行うということですね。今年はなぜか英語にしたんですけれども。「Now is the chance」、今こそ絶好の機会

そんな感じで、私が発信するスローガンに沿って常務方針や部長方針も掲げてもらうと、それぞれその方針に向かって仕事をしてもらえますね。その方針がずれてるのかどうかの確認もできます。

そういうふうに思ったことを言葉にする、文字に落とすのは大事かなと。うま書けなくてもいい、やりたいことが伝わるとそれに向かって進めることができますし、それに対する指導ができるし注意もできると。

これが最後のメッセージになったかどうかちょっとわかんないんですけれども、そんなとこかな。

———もし石田老舗さんに興味もった人がいればどうすれば良いのですか?例えば、このインタビューを見て、「この社長おもしろい」と思ったら……。

石田 面接はしますよ。新卒を採らないと言っているわけじゃないので。ただ、そういう出会いがないというだけです。

たまに電話もかかってきます。で、新卒を採用してもいいかと思ったときは面接します。「この前採用したところなんでごめんなさい」ということもあるでしょうし、そこは臨機応変なんです。だから必ず4月入社というわけでもないですよ。

だからうちでも新卒で入社ということは何回もあるし、高卒をとったりというのもあるんです。ですので、興味があればご連絡ください。

———本日はありがとうございました。

詳細情報

石田老舗/石田宏次(KOJI ISHIDA)

サイト・店舗URL:https://ishidaroho.com/

TEL 075-603-4547

所在地 京都市伏見区中島外山町110

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